太宰治〜絶望と優しさの葛藤で生きた人生〜

文豪紹介

明治の終わりに生まれ、戦後間もない昭和の激動期にその生涯を閉じた太宰治(だざい・おさむ/1909–1948)。

彼は、誰よりも人間の弱さに敏感で、誰よりもその弱さに優しく寄り添おうとした作家といっても過言ではないでしょう。自らの孤独と絶望、そして人間への深い愛情を文学という形で昇華し、「人間失格」「斜陽」などの作品を通して、今なお人々の心に生き続けています。

このコラムでは、太宰治の人生を追いながら、彼の文学がどのように生まれ、何を伝えようとしたのかを辿っていきます。

幼少期と文学の目覚め

1909年、青森県北津軽郡金木村に生まれた太宰治(本名・津島修治)は、県内でも屈指の大地主の家に生まれました。生家「斜陽館」は20以上の部屋と20人以上の使用人を擁する大豪邸で、そこには親族も含め30人以上が暮らしていました。

しかし、修治が愛を受け取ったのは両親ではなく、叔母のきゑと子守のタケという2人の女性からでした。修治は「自分はきゑの子だ」と思い込むほど、彼女に強く依存するほどだったようです。

のちに2人は家を離れ、修治は人生で初めて喪失と孤独を味わいます。この体験はのちの太宰文学における「失われた優しさ」への執着や、理想化された女性像の投影へと繋がっていきました。

神童と孤独が交差する幼少期

1916年、金木第一尋常小学校に入学した修治は「神童」と称され、特に国語や作文の才能は抜きん出ていました。しかし、その一方でいたずら好きで、よく廊下に立たされていたというエピソードも残っています。

外では明るく、内には深い自己否定を抱える——そんなアンビバレントな感情が、太宰治という人間の原型を形成していったのです。

左翼活動と自殺未遂、そして文学の道へ

やがて東京帝大に進学した太宰は、1929年に初の自殺未遂を起こします。以後、理想と現実のはざまで心を病み、左翼運動や女性関係の混乱の中で複数回の自殺未遂を繰り返しました。

そんな彼が見出したのが、文学という最後の手段でした。1933年、井伏鱒二に師事し、創作にのめり込む中で共産主義運動から離脱。

1936年には、遺書のつもりで初期作品集『晩年』を刊行

彼は本作について「私はこの本一冊を創るためにのみ生まれた」とまで語っています。

この作品集には、ヴェルレーヌの詩から取った「撰ばれてあることの 慌惚と不安 と二つわれにあり」というエピグラフで始まる『葉』や、心中事件を前衛的手法で描いた『道化の華』など、15編の短編が収められています。

自己の過去を綴った『思い出』では、幼少期の繊細な感受性が色濃く表れ、全体として散文詩のような美しさと自意識の渦が交錯する一冊。

1937年には『二十世紀旗手』を刊行。ここで「生れて、すみません。」と書いた彼の言葉は、生死に対する根源的な問いを作品として掲げる萌芽となり、のちの『人間失格』に繋がっていきます。

安定と創作の豊穣期

1939年、石原美知子と結婚。家庭を得たことで心が安定した太宰は、『女生徒』『富嶽百景』『走れメロス』といった、生命や友情、人間の誠実さを描く作品を次々と生み出します

とくに『走れメロス』(1940年)は、人間不信に陥りながらも最後には友情と信頼に賭けるというテーマが印象的で、「信じたい」という彼の心の奥底にある優しさがにじみ出ているように感じられます。

1939年初出の『女生徒』は、太宰治が14歳の女生徒が起床、就寝するまでの日常を一人称で描いた短編小説。

全編が少女のモノローグという形式で書かれており、太宰は実際に当時の女学生の日記を参考にしながら、息づかいまでリアルな少女の内面世界を創り上げました

淡い幸福感や些細な劣等感、純粋な優しさと無意識の意地悪──そうした感情の揺れ動きは、読む者の心にも静かに波紋を広げます。

故郷への回帰と深まる内省

1944年に発表された『津軽』は半自伝的小説であり、紀行文風小説の傑作とも呼ばています。太宰は自らの原風景を訪ね、子守のタケと再会を果たします。タケと再会し心から安心した彼は、本作を以下のように締めくくっています。

さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行かう。絶望するな。では、失敬。

また1945年の『お伽草紙』では、寓話にユーモアを混ぜ込みながらも、人の哀しみや愚かしさを温かく包み込むように描いています。その筆致からは、どれほど絶望しても他者を見捨てないという太宰の人間観が垣間見えます。

『斜陽』と“時代の顔”

戦後の混乱期に発表された『斜陽』(1947年)は、没落した上流階級の家に生きる母娘の物語。主人公・かず子は、母と共に伊豆の山荘で質素な生活を送りながらも、精神的な再生と自立を模索していく。弟・直治は戦地から戻るが、薬物とアルコールに溺れ、やがて自ら命を絶ってしまう。

その死をきっかけに、かず子は自分の人生を真に生きる覚悟を決める。恋人・上原との関係を通じて子どもを身ごもり、結婚ではなく「愛人」として生きる決意を固める。

作中では、道徳や家制度からの解放、戦後の倫理の揺らぎを背景に、女性の自立と再生が描かれる。読者はそこに、時代を超えた喪失と再生の姿を見出したのです。

この頃の太宰は、人気作家として絶頂期を迎えていましたが、その笑顔の奥には変わらぬ不安と孤独がありました。

静子と太宰

『斜陽』の主人公・かず子のモデルとなった太田静子との交流は、太宰にとって創作と現実の境界を揺るがす経験でもありました。

1946年、太宰は静子の日記を借り受け、『斜陽』の執筆を開始します。のちに静子が太宰の子を妊娠したこともこの作品に影を落とし、終盤の展開に大きな影響を与えました。

『人間失格』と最後の自殺

「恥の多い生涯を送って来ました。」という一文は、読書好きでなくても聞いたことのある方は多いのではないでしょうか。『人間失格』(1948年)は太宰の自己告白ともいえる作品で、人との関係に絶望しながらも、なお誰かに分かってほしいという痛切な想いに満ちています。どこまでも弱く、どこまでも優しい主人公・葉蔵の姿は、まさに太宰自身の鏡写しだったのでしょう。

主人公・大庭葉蔵は、幼少期から他人との関係に恐怖と不安を抱きながら生きてきた青年。周囲との不和を「道化」という仮面で取り繕い、人を笑わせ、好かれながらも、心の内には「人間」として生きることへの激しい違和感と自己否定を抱えていました。

幼い頃から抱える孤独、他人への恐怖、性的トラウマ—。そしてその痛みから逃れるため酒や薬物、女性に溺れていきます。

やがて心身ともに壊れゆき、最愛の妻・ヨシ子への不信、友人の裏切り、薬物中毒、自殺未遂を経て、葉蔵は精神病院に収容されます。「人間、失格」—それは彼が最後にたどりついた自己定義でした。

脱稿してからおよそ1ヶ月後、太宰は愛人とともに玉川上水で命を絶ちました。原稿用紙の上に残された最後のタイトルは『グッド・バイ』。それは読者への、そしてこの苦しみに満ちた世界への、優しくも哀しい別れの言葉でした。

まとめ

太宰が残した評論の中でも傑作と謳われる「如是我聞」には、以下のような一節があります。

人生とは、(私は確信を以て、それだけは言えるのであるが、苦しい場所である。生れて来たのが不幸の始まりである。)ただ、人と争うことであって、その暇々に、私たちは、何かおいしいものを食べなければいけないのである。

太宰治「如是我聞」

「人生というものは苦しいものだが、人との軋轢の間に芸術を楽しむものである」といったこの一文は、太宰の人生においての価値観を垣間見られる文章ではないでしょうか。

また、同評論の中で太宰は「芸術は奉仕である」とも述べています。自身の作品には、内なる叫びとともに、読者を思いやるまなざしも込められており、それこそが彼の文学が時代を超えて読み継がれてきた理由のひとつなのかもしれません。

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